教科書だけでは分かりにくい「藤原氏の摂関政治」の世界へようこそ!この動画では、大化の改新から始まり、藤原道長の栄華を経て、後三条天皇の改革で衰退するまでの約200年間、天皇の外戚として日本を支配した藤原氏の巧妙な政治システムをざっくり解説します。
この記事のポイント
- 藤原氏が権力を掴んだ大化の改新からの道のり
- 摂政と関白の仕組みと外戚政策の実態
- 藤原道長の絶頂期と「望月の歌」の真意
- 平等院鳳凰堂に象徴される国風文化の最高峰
- 後三条天皇の改革と院政による摂関政治の衰退
藤原氏はどうやって権力を掴んだ?大化の改新から始まる野望
藤原氏の物語は、645年の大化の改新から始まります。中臣鎌足は大化の改新の立役者として知られますが、669年、天智天皇から「藤原」の姓を賜りました。
- 不比等は701年の大宝律令の制定に大きく関わり、日本の法制度の基礎を築き上げる
- 不比等の娘、宮子は文武天皇の夫人となり、後の聖武天皇を産む
- それまで皇后は必ず皇族から選ばれていた
- 不比等の死後、彼の四人の息子たちが藤原四家を形成した
摂政と関白の仕組み|天皇の外戚として君臨した藤原氏
摂関政治とは一体どのような仕組みだったのでしょうか。この章では、摂政と関白という役職の違いや、藤原氏がどのように天皇家と結びついていったのかを詳しく見ていきましょう。
- 摂政は、天皇が幼少であったり、女帝である場合に、天皇に代わって政治を行う役職
- なぜ藤原氏だけが摂政や関白になれたのでしょう?その秘密は、外戚政策にある
- 藤原氏の娘たちは、まず幼い頃から宮中での作法や教養を徹底的に教育された
- 藤原氏は豊富な財力を使って、娘の住む御殿を豪華に飾り立て、優秀な女房たちを集めた
藤原道長の栄華|望月のように満ちた権力
藤原道長の人生は、まさに摂関政治の頂点を極めたものでした。966年、道長は藤原兼家の五男として生を受けます。
- 道長の転機は、995年であった
- 道長は、天皇に娘の彰子を入内させるため、周到な準備を始める
- 道長は、彰子の教育係として、当時最高の知識人たちを集める
- 999年、彰子は一条天皇のもとに入内した
藤原頼通と平等院鳳凰堂|国風文化の最高峰
藤原道長の長男、頼通は992年に生を受けました。頼通は二十代半ばで国の舵取りに立ちます。
- 政治的には苦境に立たされながらも、頼通は文化面で大きな功績を残する
- 平等院は、頼通が父の道長の別業だった宇治殿を1052年に寺へ改め、翌1053年に鳳凰堂が完成した
- 末法思想とは、釈迦が亡くなってから時が経つにつれて、仏法が衰えていくという考え方だ
- 末法の世では、どんなに修行しても悟りを開くことはできない
摂関政治の衰退|後三条天皇の改革と院政の始まり
摂関政治が衰退し始めたきっかけは、1068年の後三条天皇の即位でした。後三条天皇は、藤原氏の力に頼らない独自の天皇でした。
- 藤原氏の経済基盤は荘園にあった
- 大江匡房や源経信など、藤原氏以外の有能な人材を登用する
- 1072年、後三条天皇は息子の白河天皇に譲位
- 白河天皇は1086年に息子の堀河天皇に譲位し、白河上皇として院政を本格化させた
流れで見る藤原氏の摂関政治
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
藤原氏はどうやって権力を掴んだ?大化の改新から始まる野望
中臣鎌足は大化の改新の立役者として知られますが、669年、天智天皇から「藤原」の姓を賜った
-
摂政と関白の仕組み|天皇の外戚として君臨した藤原氏
この章では、摂政と関白という役職の違いや、藤原氏がどのように天皇家と結びついていったのかを詳しく見ていく
-
藤原道長の栄華|望月のように満ちた権力
966年、道長は藤原兼家の五男として生を受ける
-
藤原頼通と平等院鳳凰堂|国風文化の最高峰
藤原道長の長男、頼通は992年に生を受けた
-
摂関政治の衰退|後三条天皇の改革と院政の始まり
摂関政治が衰退し始めたきっかけは、1068年の後三条天皇の即位であった