教科書だけでは分かりにくいフェートン号事件の世界へようこそ!この動画では、江戸時代後期に起きた、イギリス軍艦フェートン号が日本の主な貿易の窓口である長崎に忍び込み、日本の武士を翻弄した事件をざっくり解説します。なぜこの事件が起き、どのような結末を迎え、そしてたった一度の事件がその後の日本の歴史をどのように変えたのかを分かりやすく深掘りします。
この記事のポイント
- フェートン号事件が起きた当時の日本の状況
- ナポレオン戦争が遠い日本に影響を与えた理由
- 長崎港で起きた緊迫の人質事件の経緯
- 長崎奉行の切腹と佐賀藩の懲罰
- 事件が幕府の海防意識を高め、異国船打払令へと繋がった経緯
オープニング:イギリス軍艦がなぜ日本に?誰もが予想しなかった衝撃的な事件
1808年10月、長崎の港に一隻の外国船が現れます。当時の長崎の人々は、外国船といえば、決まった時期にやってくるオランダと中国の船だけでしたから、いつものオランダ船かなと、のんきに構えていました。
- その船は、近づいてくるオランダ商館の役人たちを捕らえると、日本側に燃料や食料を要求してきた
- この時、この船がつけていた旗はオランダのものでしたが、その船は、実はイギリスの軍艦であった
- 艦を率いたのはフリートウッド・ペリュー
- この突然の出来事に、日本の役人たちは大混乱に陥る
事件の背景:鎖国の日本に忍び寄るナポレオン戦争の影
フェートン号事件は、日本の鎖国という体制が、世界の動きからどれだけ遅れていたかを示す、最初の大きな出来事でした。
- 当時の世界は、フランスのナポレオンがヨーロッパを席巻した大規模な戦争の渦中にあった
- この戦争は、遠く離れたアジアの日本にも影響を及ぼしていた
- 当時、日本の対外通商は長崎が中心で、欧州勢ではオランダのみが公認であった
- イギリスの軍艦フェートン号は、まさにその目的で、オランダの船を追って、はるばる日本までやってきたのであった
事件の経緯:偽りの友情と人質!長崎港での緊迫の数時間
事件が起きたのは、1808年10月4日。旧暦では文化5年8月15日です。
- この船は、オランダの旗を掲げていたため、日本の役人たちは、いつものオランダ船だと思って、船を近づけ、あいさつをしようとした
- その船は、日本の小舟を威嚇するように大砲を構え、さらに、ボートで出迎えた出島のオランダ商館員二人を拘束し
- これには、長崎奉行の松平康英も驚きを隠せなかった
- 人質の解放を最優先に時間を稼ぎ、解放前に出港するなら撃つ準備を諸藩に命じる
事件の結末:国を辱めた責任。切腹と懲罰の嵐
フェートン号が去った後、松平康英は、大きな決断を迫られます
- 松平は、この事件で外国に日本の恥をさらしたこと、そして自らの任務を果たせなかったことに、強い責任を感じていた
- 当時の武士の社会では、任務に失敗することは、命をかけてでも償わなければならないことであった
- 松平康英は、部下や家族に、自身の決意を伝え、そして自ら命を絶つことを選んだ
- 彼は、遺書の中で、個人的な恥はさておき、日本の恥を外国にさらしてしまったと伝えられている
事件の歴史的影響:たった一度の事件が日本を大きく変えた理由
フェートン号事件は、わずか数時間で終わった小さな事件でしたが、その後の日本の歴史に、非常に大きな影響を与えました。
- この事件ののち、長崎の通詞には英語学習が命じられ、最初期の英語書が次々と作られていく
- これは、日本に近づいてくる外国船を、問答無用で追い払うという、非常に厳しいものであった
- この方針は、その後、ペリーが来航するまでのおよそ30年間、日本の対外方針の基本となった
- この事件で大きな恥をかいた佐賀藩も、この経験を無駄にしなかった
流れで見るフェートン号事件
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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オープニング:イギリス軍艦がなぜ日本に?誰もが予想しなかった衝撃的な事件
1808年10月、長崎の港に一隻の外国船が現れる
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事件の背景:鎖国の日本に忍び寄るナポレオン戦争の影
フェートン号事件は、日本の鎖国という体制が、世界の動きからどれだけ遅れていたかを示す、最初の大きな出来事であった
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事件の経緯:偽りの友情と人質!長崎港での緊迫の数時間
事件が起きたのは、1808年10月4日
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事件の結末:国を辱めた責任。切腹と懲罰の嵐
フェートン号が去った後、松平康英は、大きな決断を迫られる
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事件の歴史的影響:たった一度の事件が日本を大きく変えた理由
フェートン号事件は、わずか数時間で終わった小さな事件でしたが、その後の日本の歴史に、非常に大きな影響を与えた