処刑されたはずの男が、20年後に再び現れる──。源義親の乱は、単なる反乱劇ではなく、大規模な「偽者騒動」を引き起こした怪事件でもありました。源平の立場が逆転するきっかけとなった、この不可解な事件の真相に迫ります。
この記事のポイント
- 源氏最強の御曹司・源義親がなぜ無名の平正盛に敗れたのか
- 平清盛の祖父・平正盛が歴史の表舞台に登場した決定的な瞬間
- 討伐後20年以上にわたって続いた「義親生存説」と偽者騒動の謎
- 白河法皇が仕組んだ?源氏弱体化と平氏台頭の政治的背景
- 源平交代の起点となった事件がその後の歴史に与えた影響
処刑されたはずの男
まずは、事件のあらましを押さえておきましょう。嘉承3年、西暦1108年の正月でした。
- 当時の正盛は、因幡国の国守を務めていたとはいえ、武名が轟く存在ではない
- この戦果によって、平正盛は白河法皇の信頼を一気に高めた
- 当時の上級貴族・藤原宗忠は日記の中で、正盛の異例の出世に疑いの目を向けている
暴走する悪対馬守
義親は義家の次男とされ、源氏の御曹司として注目されます。父の義家は、後三年の役で武名を世に知らしめた源氏のリーダーです。
- 義親もまた、父譲りの人並み外れた武勇を誇っていた
- 後に対馬守に任じられた義親は、九州に赴任する
- 略奪を繰り返し、さらには朝廷から派遣された官使を殺害する暴挙に出た
- 大江匡房は、当代きっての知識人として知られ、「三房」の一人にも数えられる
隠岐への流刑と再反乱
こうして朝廷は、義親を隠岐国へ流す決断を下しました。隠岐は、現在の島根県に属する日本海の離島です。
- そのまま出雲にとどまり、嘉承2年、西暦1107年、行動を起こする
- 目代とは、国司の代わりとして現地に派遣される地方官のことであった
- 義親は出雲の蜘戸という場所に城を築き、そこに立てこもったという
- 義親は出雲で勢力を固める
刺客・平正盛の抜擢
嘉承2年12月19日、白河法皇は義親討伐の隊長を指名します。選ばれたのは、伊勢平氏の武将で、因幡守を務めていた平正盛でした。
- 平正盛はまだ、名の知れた武将とは言えなかった
- 白河法皇との関係にあった
- 源氏を討つのは源氏であるべきというのが、当時の常識であった
- 源氏ではなく平氏に討たせることで、源氏の力を削ぐ狙いがあったのかもしれない
作られた勝利と源氏の冬
平正盛の武功は、京都中の話題となりました。しかし、この勝利には多くの疑問が投げかけられました。
- そこには、最も身分の低い者が第一国の守に任じられたのは、院の側近だからだろうと書かれていた
- 義親討伐については、実際の戦いの様子がほとんど伝わっていない
- しかも首が本物かどうかを疑う声が当時からあり、その後も義親を名乗る者が各地に現れた
- 義家の死後、源氏の家督は義親の異母弟である源義忠が継いだ
義親は生きていた?
源義親の首が京都で晒されてから、奇妙な事態が始まりました。義親を名乗る者が、各地に出現し始めたのです。
- 越後国に義親を名乗る男が現れ、人々を動揺させた
- 驚くべきことに、偽義親の出現は20年以上も続いた
- その理由の一つは、平正盛の討伐があまりにも順調すぎたことにある
- その首は、果たして本人のものだったのか
流れで見る源義親の乱とは?源氏没落と平家台頭の謎〜
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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処刑されたはずの男
嘉承3年、西暦1108年の正月であった
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暴走する悪対馬守
父の義家は、後三年の役で武名を世に知らしめた源氏のリーダー
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隠岐への流刑と再反乱
隠岐は、現在の島根県に属する日本海の離島
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刺客・平正盛の抜擢
嘉承2年12月19日、白河法皇は義親討伐の隊長を指名する
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作られた勝利と源氏の冬
平正盛の武功は、京都中の話題となった